これも記憶で書く。だから細部は、記憶のかたちをしている。
1
曲が終わっても、キエさんは次をかけなかった。
真空管は灯ったままだった。スピーカーの奥で、耳を寄せなければわからないほどの低い音が続いていた。五十ヘルツ。周期は二十ミリ秒。音楽が止むと、それが聞こえる。
Sの育った町では六十ヘルツ、十六・七ミリ秒だ。Sはたぶん、そんなことは知らない。僕は知っている。知っていても、何の役にも立たない。
アンプの裏から伸びるケーブルには、プロケーブルと書いてあった。あの店の、忖度のない口調は信頼できる。
2
Sはグラスを両手で持ったまま、窓のほうを見ていた。外の灯りはもう、数えるほどしかなかった。
おかわりは、とキエさんが聞いた。Sは首を振って、それから、やっぱりください、と言った。キエさんは何も言わずに瓶を下ろした。どの瓶だったかは覚えていない。
3
壁のギターを、キエさんが下ろした。埃を払って、Sの前に置いた。アコースティックギターなのに、ヘッドだけがテレキャスターの形をしていた。ペグが片側に六つ並んでいる。弦はナイロンだった。弾けるの、と聞くと、Sは、少しだけ、と答えた。
高音の弦は切れていて、残っているのは低音の二本だけだった。Sはその二本で弾きはじめた。E。A。十二小節。ターンアラウンドを弾いて、頭には戻らなかった。何の曲かは、聞かなかった。
4
猫の置物が、相変わらずこちらを向いていた。五つの席のうち、埋まっているのは二つだけだった。
もう少しいてもいいですか、とSが言った。いつまででも、とキエさんが言った。
0は一秒に百回来る。握った手を離さない。
