これも記憶で書く。だから細部は、記憶のかたちをしている。
1
その日は、Sが先に来ていた。
珍しく、何も話さなかった。グラスの氷が溶けるまで、店の音楽だけがあった。
2
ニュースがあった。電力会社に入って一年目の、十九歳の人が亡くなった。
持ち物の中に、家族に宛てた文章があったと報じられていた。謝る言葉が書かれていたという。
謝る側が、逆だ。
先輩からの言葉についても、書かれていたそうだ。記事はそれを、パワハラを訴える記述、と呼んでいた。訴える相手が、もういない。
3
Sは、自分の話をしなかった。僕もしなかった。
十九歳というのは、こういう数だ。生まれてから、誰かが毎日ごはんを作って、学校に送り出して、進路を一緒に考えて、就職が決まった日に、たぶん少しだけ祝った。それが十九年ある。
会社にいたのは、一年に満たない。
十九年かけて育ったものを、一年に満たない時間で終わらせた。終わらせた側は、明日も出勤する。名前は出ない。組織は、調査中です、と言う。
辞めていい、と言ってくれる大人が、そこにいなかった。
4
Nが来て、記事を読んで、そういうことね、と言わなかった。
一般論として、とも言わなかった。
ただ、指導という言葉は便利だね、と言った。何にでも使える。使った側は、使ったことを覚えていない。
5
僕らは笑わなかった。笑うところではなかった。
帰り道、Sが言った。あのとき記録を残したのは、こういう日のためだったのかもしれない。誰のためかは、まだ分からないけど。
