これも記憶で書く。だから細部は、記憶のかたちをしている。
1
キエさんの店には、伝票がない。
何を何杯飲んだかは、キエさんが覚えている。帰りぎわに一度だけ言われる数字は、僕の覚えている数とたいてい合う。合わないときは、キエさんのほうが正しい。
2
前は音楽の仕事をしていたらしい。何をしていたのかは、誰も聞かない。
音を聴くとき、キエさんは首を少しだけかしげる。
店には、スピーカーが四つある。鳴っているのは、いつも二つだけだ。
一度だけ、Sがレコードの話をしたとき、キエさんは針を上げて、盤を光に傾けた。溝の幅が、そこだけ少し広い。ここ、と指さしたのは、曲と曲のあいだだった。
3
灰皿には、いつも吸いかけが一本ある。キエさんの煙草は、置いておくと勝手に消える。消えると、また点ける。
瓶はラベルを手前に向けて並んでいる。一本だけ、ラベルが奥を向いていた。理由を聞くと、キエさんは、まだ開けてないから、と言った。
4
キエさん、という名前の由来を、常連は誰も知らない。
Nがそれを聞いたことがある。
キエさんは笑って、名前は呼ばれるためのものでしょう、と言った。それ以上は言わなかった。Nは、そこで手帳を閉じた。
5
最後の一杯のあとに、味噌汁が出ることがある。頼んだ人はいない。
閉めるとき、キエさんは真空管の電源を最後に切る。灯りが消えても、ガラスの中はしばらく赤い。
それが見えなくなるまで、キエさんは階段の電気をつけない。

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